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いろは70年の歴史をご紹介

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壱弐参(いろは)横丁の歴史は、終戦後に始まりました。
以来70年——仙台の街並が変わりゆく一方で、今でも昭和の香りを色濃く残しています。
横丁の人々やお客さんたちがともに、懐かしき時代を受け継ぎながら歩んできた歴史をご紹介します。

仙台空襲の復興からスタート

昭和20年7月10日。「仙台空襲」で焦土と化した仙台の中心部。
多くのものを失い、焼け野原となった街中で、いち早くにぎわいはじめたのは、仙台駅前や一番町などの露店でした。
道端に戸板やござを敷き、蔵に眠っていた瀬戸物や焼け残った下駄などを並べた露店に買い物客が集まり、市民の新しい生活がスタートしたのです。

露店から市場が誕生

やがて、露店商たちに働きかけて、市場を創設しようという人々の動きが出始めました。
昭和21年8月に、現在の壱弐参横丁の前身となる「中央公設市場」が誕生。
戦前の借地権者や戦地からの引揚者、空襲で焼け出された人などが店を出し、戦後の混乱期、仙台で最初に復興を遂げました。

日に何度も仕入れるほど繁盛

戦地や疎開先から戻ったり、大都市から再疎開してきた人々で、仙台市の人口は急増しました。
中央公設市場は、生活必需品を買い求める客でいつも混雑し、どの店も朝から夜中まであきないに精を出していました。
つい先日までの偉い軍人さんが出した魚店では、一日に何度も塩釜まで仕入れに出かけて、魚を売っていたというエピソードもあります。

物販、飲食、娯楽でにぎわい

周辺は、映画館がならび、空き地の舞台で行われるさまざな催しがあったりして、日常の買い物から娯楽まで揃っている繁華街としてにぎわいました。
中央公設市場ができたころ、一番町通りと南光院丁通りを結ぶ2本の通路には名前がついていました。
青葉通り側の「青葉小路」には衣料品や雑貨など物販店、南町通り側の「松竹小路」には食料品店や飲食店が軒を連ねていましたが、長い間に、業種はだんだん混じっていき、現在のような壱弐参(いろは)横丁が形づくられました。

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